茨城県古河市 真言宗豊山派 徳星寺のご案内。

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真言宗豊山派 徳星寺
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感謝の気持ち

平成22年8月15日

徳星寺の御詠歌講「つくしんぼ」は平成元年四月から始まったので 今年で二十二年目になる。当初から参加している講員さん6名は、 長年の功績が認められ、今秋の大師講全国大会で表彰されることになった。六十代で始めた方は八十代になり、身体的にも厳しくなってきた方もいる。また色々な趣味・余暇が楽しめる今日では、御詠歌はただの趣味と言うだけではこれだけ長くは続けられないだろう。

しかし、「暑くて行くのが大変だったけど、来て良かった」とか 「ご本尊様に会えて良かった」とか「来ないと何となく気持ち悪いのよね~」などと言って皆さん笑顔で、御詠歌講に参加して下さっている。これも『信仰心』があってこそ続けられるものと思う。信仰心のある方は、この世は、人間の力ではどうしようも出来ない 大きな力があるということを知っている。だから彼女たちはいつも「お陰様で」や「ありがとう」という言葉が自然に出てくる。生かされているという感謝の気持ちがとても美しい。お腹空けばコンビニへ行き、欲しい情報や物があれば家にいながらインターネットすぐに解決し、どこにいても携帯電話で誰かと話せ る便利な世の中。だからちょっとでも思い通りにいかないと怒り出 したり、挫折感を感じたりしていまう。これは、忙しいという言い 訳で信仰心という美しい心を忘れてしまっている人が増えてきているからだと思う。

今一度、「有り難い」「お陰様」と自然と手を合わせる心を取り戻そう。

 

祐 海 合 掌

 

生きる活力

平成22年1月1日

去年十月七日の読売新聞茨城版に九十二歳でホームヘルパー三級の資格を取得し、生涯現役ボランティアとして九十七歳まで活躍した山崎さんという方の記事を読んだ。九十歳以上の交流会を設立に加わり、その交流会の送迎を担当していたという。とても素晴らしいと思った。自分がその歳まで生きていたら、同じように新しいものに挑戦できるだろうか、甚だ疑問である。

十二月十一日には、娘の学校で持久走大会があった。一ヶ月前か ら学校で持久走の練習が始まった。足の遅い娘はいつもビリ争い。私と娘とで土日は練習しようということになり、可能な限りの土日朝は二人で頑張って走った。大会当日、二十三位だった。欠席者が いたらしく、残念ながら娘は最下位。この話題に触れない方が良いのかなと思いそっとしておいたら、娘がお願いがあるのと言い出した。「これからも土日一緒に走る練習をしてほしい。足が速くなりたいから。」と言った。結果が駄目だったからといって、あきらめないでかえって奮起している娘の姿に驚き、大切なことに気づかされた。 大人になるといつの間にか、これ出来ない、あれ出来ないと自ら可能性を閉ざし、成果の出そうなものしか努力しない。新しいことを始めることだって臆病になってしまう。しかし、新しいこ とに挑戦したり、結果ばかりではなく努力し続けることに意義がある。そして、これこそが生きる活力であり、笑顔の源だと思う。

 

祐 海 合 掌

 

心のゆとり

平成21年8月1日

最近の私は、あっという間に時が過ぎ時間に追われている気がする四月に娘が小学校へ入学したと思ったら、もう夏休みになってしまった。しかも長いと思っていた夏休みも後半に入ってしまっている物忘れも恐ろしいほど多く、心に余裕がないからなのかな…と思う。

そんな中、『聖(セイント)☆おにいさん 中村光 著 講談社』いうおもしろい漫画を見つけた。目覚めた人ブッダ、神の子イエス世紀末を無事に越えた二人は、東京・立川でアパートをシェアし、下界でバカンスを過ごしていた。近所のおばあちゃんのように、細か いお金を気にするブッダ。衝動買いが多いイエス。そんな“最聖” コンビの立川デイズ。という内容で、ゆるゆるコメディーだから、 疲れた心にはぴったりで、ほっと出来るものになっている。違う宗教の祖である二人が、互いの宗教を認め一つの世界で仲良く暮らしている姿が実におもしろい。作者はコメディーだから専門書的にしたくないとインタビュー記事に書いてあったが、この世界観はまさに真言宗の考え方と同じだからまたまたおもしろい。真言宗は、いのちが生まれるところ大宇宙を大日如来と称し、その中に沢山の仏様や神様、命あるすべてのもの、もちろん私たちもいるという考えである。だから、違う宗教、違う人種だからといって喧嘩はしないし、認めないわけでもない。見た目は違っても、中身は一緒。だってもともとは、ひとつなのだから。私たちはどうしてもせかせかと時間に追われ、心を見失われがちだが、もう一度、目を閉じて、この大日如来というおおきなゆりかごにいると言う事を感じ、心を落 ち着かせゆったりと過ごしていきたいものだ。

 

祐 海 合 掌

 

心の豊かさ

平成21年1月1日

私の娘はちょっぴり運動が苦手だが、幼稚園のスイミングスクー ルに通っている。この間スイミングスクールがあった日、幼稚園バスから降りてきた娘の目には、少し涙が浮かんでいた「どうしたの?」と私が聞くと、どうやらスイミングスクールで進級試験があったらしく「お友達はどんどん上のクラスに行って、帽子の色も変わっちゃうし、祐那一人になっちゃうよ」と言っていた。

私は、仏様だったらこの子になんて声を掛けるのだろうと考え、「ラッキーじゃん!!」と言った。娘は目をまん丸にして「どうして?」と聞いてきた。私は「それはね、お友達が沢山いるとなかなか順番が回ってこなくて泳げないけれど、お友達が少ないとどんどん泳げるから良かったじゃない!一番大切なことは、早く上のクラ スに行くことじゃなくて、長く続けて頑張った子が凄いんだよ」と声を掛けた。娘は、「そっか!頑張る!」と言って、また笑顔になり、前向きな気持ちになってくれた。

人の悩みは年を重ねるごとに深くなっていくものだが、『進級したい』『帽子の色が違う』時には『お友達に酷いこと言われた』と泣き、心を傷めている六歳の娘も『昇進したい』『人に傷つくこと言われた』『勝ち組か負け組か』などと悩んで翻弄されている大人の私たちもなんら変わりないではないか。体だけは成長し、心は変わらず、もしくは子供の純粋さがなくなった分、恨みやすくなり、妬みやすくなっている私たち。いつまでこの悩みのスパイラルを続けているのかなと思うと、逆に悩みなんて滑稽で仕方ないと笑えてしまうのは私だけだろうか。

仏様の教えは中道、つまり「こだわるな」ということである。一つのものにとらわれ、こだわり、迷うから苦しいのだ。だから、きちんと悩みと向き合い、そして前向きに考え、肯定的に考えると笑顔になり、心が救われる。

どうか悩まれた時、心が傷んだ時は、仏様ならどう考えられるか考えてみて下さい。仏様はいつでも手をさしのべてくれています。それに気づくかどうかは私たち次第。悩みに留まり続けているのではなく、階段を上るように一歩一歩解決して、心豊かになりたいと思う。

 

祐 海 合 掌

 

感謝

平成20年8月1日

毎朝、テレビでニュースを見ていると、六歳になった娘の祐那は、「消して!消して!怖いよぉ」と言う事が多くなった。それは、少年少女が親を殺してしまったり、親が子供を殺したり、秋葉原無差別殺人の様に猟奇的事件などが多発し、テレビを付けると残虐なニュースが流されているからだ。色んな事が理解できるようになってきた娘とって、大人が思う以上に恐怖を感じるようだ。こんな社会は子供に見せたくないと思うし、もう間もなく親の手を離れ、この社会に出て行くと思うと不安になる。どうしてこの様な社会になっ てしまったのだろう。人間本来の姿素晴らしさが見失われつつある ような気がする。しかし、息子の大雲を見ていると人にとって何が 大切なのかということを気づかせてくれる。

大雲は生まれてすぐ大病を患ったせいで発達障がいになり、とて もゆっくり成長する。普通の子と同じ様に出来ることは少ないが、 最近の大雲は少しお手伝いをしてくれるようになった。もちろん、気が向かないとやってはくれないのだが、大雲にとってはすごい事 なのだ。私が洗濯物を干していると、洗濯籠から洗濯物を取り出し、「どうぞ」と言って渡してくれる。私が「ありがとう」と言うとニコニコっと嬉しそう顔をする。何回かこのやり取りをしていると大雲は『ありがとう』と言われたく「どうぞ」が抜けて「ありがとう」と言って洗濯物を渡してくれる。大雲の得意げな顔見て思わず笑ってしまった。コミュニケーションが取りづらく、マイペース な大雲だけど、障がいがあっても人の役に立ちたいのだなと思い、 これが人間本来の姿なのだと実感した。

自分の利害ばかり考え、自分勝手な行動で周りも自分も傷付けてしまう私たちだけど、小さな事で良いのだから、一日一回人の役に立てる事をし、人間本来の美しさを取り戻そう。そして「ありが とう」という言葉は、素敵で人を幸せにする言葉だと思う。ただ心に思うだけではなく、どんどん声にして伝えるべきだ。また親子でしか交わせない「生んでくれてありがとう」「生まれてくれてありがとう」と言ういのちへの感謝をしたいものだ。

 

祐 海 合 掌

 

謙虚な気持ち

平成20年1月1日

生まれてすぐ大病を患った息子は、発達が遅い、コミュニケーショ ンがとりずらいなどの後遺症がある。そんな息子だが、4月から市立の保育所の年少組に入所できた。

はじめは泣いてばかりいたが半年が過ぎた頃から慣れ始め、今では笑って通えるようになった。なかなか社会に入りにくい子なのだが、先生が一人ついてくれているので安心してみてもらっている。 保育所に受け入れてもらえた事がすごく嬉しく有り難いと思った。私が学校へ通っていた頃を思い出すと学校へ行けるのは当たり前で感謝の気持ちなんてなかった気がする。情けないが、自分が親にな ってみて地域の人々に支えられ学校に通えるのだとはじめて実感した。学校給食費未払いが社会問題になっているが、自分だけの事を 考えるのではなく、地域の人に支えてもらって学校に行かせてもらってるという謙虚な気持ちが必要だと思う。

そして同じ保育所に通っているお友達にも優しく接してもらって いる。実はうちの子にはお友達が出来ないのだろうな…、一緒に遊べないのだろうな…って思っていたのだが「たいちゃん!たいちゃ ん!」と声を掛けてくれ遊んでもらっている。三歳から六歳の小さな子供は自分のことばかり考えてるのかと思っていたが、純粋に弱い子を護ろう、かわいがろうという慈しみの心があるのに驚いたのと同時に感動した。この慈しみの心は人間本来が持つ良いところなのだろうなと感じた。

しかし、段々成長するに従って、自分と違うものを認めない、排除しようという気持ちが大きくなっていき、いじめてしまう気持ちに変わっていってしまう。自分のことばかり考えているのはむしろ大人の方の様だ。権利主張ばかりするのではなく、謙虚さを持ち慈しみの心を持っておおらかに生活していきたいものだ。

 

 

祐 海 合 掌

 

時間

平成19年8月1日

『オーラの泉』という不思議なテレビ番組をご存じだろうか。これは国分太一と美輪明宏とスピリチュアルカウンセラー・江原啓之のトーク番組で、始めは深夜枠だったのにゴールデンタイムに移るほどの人気番組だ。始めに江原啓之が目をつぶり「ふんふん~」と頷きながらなにかと交信している。そして突然「ぶっほぉほぉほぉ~ 」と美輪明宏が笑い出し、江原と「そうよね~。あ~よね~」とこそこそ話をした後、江原がゲストの前世や守護霊・オーラの色はあ~だこ~だと話し始めるのだ。

目に見えない物や科学的に証明されていない物をあたかもある様な如く話し、番組が成立しいるのにびっくりした。テレビで放映されていると、これが事実である様に思われるから不思議だし、ある意味怖いなっと思った。

確かに人間の力が及ばない不思議なことがあると思うし、前世や守護霊を否定するつもりはないが、このような話に惑わされてはい けないと思う。私なんか霊が見えると言う人に人に三百体の霊に取り憑かれているといわれたこともある(笑)。今ある不幸なことを前世やご先祖様のせいにして現実逃避をする人もいるが、今ある現実を素直に受け入れ、明らかにする意味での明きらめが必要であると仏教では説いているからだ。

この間、娘の祐那が夏風邪の一種である手足口病になってしまった。手の平と足と膝、口の中までぽつぽつと発疹が出来てしまう病気だ。熱は三十七度八分位でさほど酷くならなかったのだが、口に出来てしまった発疹が大きな口内炎になってしまい、四日間も何も食べられなかった。小児科の先生にはこの時代餓死する人なんていませんと笑われてしまったのだが…、おしゃべりな娘が一言も話さなくなり、飲食を嫌がるようになってしまったので、このまま餓死してしまうのではと心配した。先生が危機に瀕すれば絶対食べますよと言われた通り、とてものどが渇いたらしく、さっきまで痛がっていたのに急にごくごくと水を飲み出した。「あっ痛くない。しゃべれる」と四日ぶりに娘が話しだした。もやもやした霧が晴れたようにとても嬉しかった。当たり前のことなのに娘と話せてとても幸 せを感じた。

なにかと不幸だと思い、毎日の生活がつまらないものと思うのではなく、本当は生きている今が幸せであり、この命に感謝し、少しでも人のために自分の時間(命)を使うことが大切である。

 

祐 海 合 掌

 

大好き

平成19年1月1日

法事で必ず話していることがある。

それは、お経には、一人一人の心の中に仏さまが住んでいる。その仏さまに早く気付きましょうということが説いてある。仏さまは目に見えないし、触れることが出来ないので、感じることは、難しく思うかもしれないが、本当は簡単である。自分の胸に手を当ててみて、心臓の鼓動を感じることが出来るだろう。それは生きている証である。自分が生きている限り命がる。仏教では命=ホトケという。この命が仏だと思えば感じることが出来るだろう。自分の命= 仏さまを感じることが、悟りへの第一歩なのであると説いている。またお経には、自分の命だから、とても大切な仏さまは自分以外 の命ある全てのもの、人に仏さまが住んでいることを忘れないということも説いてある。人を敬う気持ち、感謝する気持ち、尊いものを尊い、ありがたいと手を合わせる素直な気持ちを忘れない事という二つを話している。

では、具体的にどう生活していけばよいか?

まず、鏡を見て『大好き』と恥ずかしがらず言ってみて欲しい。この『大好き』という言葉は言うと必ず『き(い)』で終わり、自然と笑う顔になる。自分の命=仏を感じるということは、自分のことを好きになること、毎日笑顔で過ごす事である。

次にあなたの周りの人に『大好き』と思いながら、『ありがとう』と言ってみて欲しい。これを続けていくと仏さまを感じることが出来る。そして、たくさんの仏さまに出会うことが出来るだろう。

私の子供たちにも毎日一回以上は『大好き』と必ず言っている。子供たちは安心した顔になる。特に生まれてすぐ大病を患った息子は、発達が遅れていてなかなか言葉が出ないが、大好きと言うと、すごくうれしそうな顔をして、彼の気が向けば、大好きと言えるようになった。『大好き』という言葉は、魔法の言葉である。子供たちだけじゃない、本当は私の方が温かい気持ちになり、周りの人、 仏さまに支えられているのに気付き、感謝の気持ちでいっぱいになるからだ。

 

祐 海 合 掌

 

成長

平成18年8月1日

いっぱい笑って

大きくなぁれ 大きくなぁれ

笑いは心の栄養ドリンク

心の成長は無限大

大学時代の友人に赤ちゃんが生まれたので、上の文と絵手紙を書いてお祝いに行った。無事に健康で大きく成長してほしいという 願いを込めて書いたのだが、私の息子のように人には思いがけなく病気になってしまったり、病気が治っても後遺症が残り、それを一つの個性として一生付き合っていかなくてはならない時もある。あまり表情がなかった息子が最近よく笑うようになったのを見ていると、体の成長は人それぞれ違いはあるが、心の成長は無限に大きくなるものだということ感じる。

先日、スーパー銭湯に行ったときである。サウナに入っていたら中年女性が入ってきて、私の下の段に座りいきなり私の足を押してきた。少しずれると、「邪魔なんだよ!」と言ってきた。公的場所に私の場所もないのに全く自分本位の人だと腹を立ててしまった。大人になったら、体はもう成長しない。では、どこを成長させたらよいのか。それは心しかない。毒をはくより、笑顔で接し、思い やりの気持ち、謙虚な気持ちを忘れないで、心を大きく成長させたいものだ。

 

祐 海 合 掌

 

心の眼

平成18年1月1日

三ヶ月前に歩き始めた長男の大雲は、外での散歩が日課となって いる。この日課である散歩のため靴を履かせ外に出たときである。いつもなら靴を履いた途端、喜んで笑いながら玄関前の緩やかなスロープを行ったり来たりするのだが、このときは違っていた。歩き出さず座り込んで、上の方を見て目をぱちぱちさせていたのである。何かと思って同じ方向を見てみたら、冬の凛としたとても素晴らしい青空が広がっていた。あれっ?今日ってこんなにいい天 気だったんだとその時初めて気がついた。そして、近頃ますますおしゃまになってきた上の子は、時々私の顔を見て「ママー、ニコニコママになってよ」という。別に怒っていないのにどうしてそんな 事言うのかなと思って、鏡を見てみたら、眉間にしわを寄せ、本当 に怖い顔をしていた。今一番、目が離せない子供達の世話に追われ心に余裕がなくなっていたのが恥ずかしくなった。こういうときは御詠歌の名取先生が教えてくださった、真言を思い出している。

 

『オン ニコニコ ハラタテマイゾ ソワカ』

 

なんじゃこりゃ?と思うかもしれないけど、不思議とこの真言を唱えるとカリカリしてたり、ガツガツしてたり、クヨクヨしているのがバカらしくなってきて、くすっと笑ってしまう。多かれ少なかれ 誰にだってストレスがある。それをため込むと、イライラしたりムカついたりキレたりして、心が病んでくる。みんな「私は大丈夫」と思っていても、誰にでも体が風邪を引くように心だって同じく風 邪を引くのだ。今生きているこの命に感謝し、仏さまに手を合わせ ニコニコ優しい笑顔を忘れず、心を暖めて風邪を引かないようにし たいものだ。

 

祐 海 合 掌

 

幸せはお金では買えない 心しかあの世には持って行けない

平成17年8月1日

娘は三歳になり一日中おしゃまにしゃっべてはいるが、まだまだ甘えん坊である。息子は一歳四ヶ月になった。ハイハイで好きなところへ行けるようになり、恐がりですぐ泣くくせにどんどん一人で 行ってしまい目が離せなくなってきた。息子は生まれてすぐ病気をしたので、定期的に病院で検査をしている。この間はMRで脳の断面図を撮った。結果は脳が萎縮していた部分があり、実際に写真で見るとこんなに萎縮しているのかと愕然とした。しかし、それ以外は悪いところがなく、成長も順調とのことで安心した。どんなことがあってもこの子達をしっかり見守って愛していこうと強く思いなおした。人によっては、良い方向に考えられず、将来のことを不安に思っ たり、自分を責めてしまったりと悩んでしまう人がいると思う。ただこの闇を払うのは自分自身でしか払えないのである。どうしたら悩みから脱し満足して生活するか、どう幸せに生きていくか仏教では六つの心がけを示している。

 

1.思いやりの心

自分を甘やかさない心

他人の生き方も尊重する心

無理せず、怠けずの心

意欲を高く強く持つ心

仏様のように考える心

 

悩みがあるときだけ心がけるのではなく、常日頃からこの心がけを実践し生活していくことが大切である。そして幸せという財産を増やしていきたいものである。

 

祐 海 合 掌

 

目線

平成17年1月10日

長男の大雲は生後間もなく大病をしたが、その後は病院の先生もびっくりするくらい順調に成長し、9ヶ月になった。よく笑い、手ばたきもするようになり、病気したことを忘れてしまうくらい元気 である。

祐那は2才5ヶ月になり、よくやくおしゃべりするようになってきた。子供といると発見が多い。散歩にでかければ、道路と塀の隙間 に力強く、小さな花が咲いてるのを見つけて「匂うよ」と教えてくれる。電柱にしがみついて「うえ、うえ」と言うので上を見てみると、電線がたくさんのびていて、下から見上げるとこうなってるん だと、電柱は見慣れているのに初めて見るような新鮮な気持ちになる。この間は、日が暮れて外に出てみたら、きれいな三日月が出ていた。それを見た祐那は、「あっ!バナナだ!」と言ったので、思わず大笑いしてしまい、このちょっとした発見に幸せを感じる。

人はいつからか、月は月としか見なくなってしまうのだろう。確か自分も幼いときは、遊びの中でいろいろ発見していたと思うが、大人になると自分の目線で見えるものや自分の固定観念でしかもの を見なくなってしまった。

怒っている人を見ると、常に怒って怖い人と決めつけ、落ち込ん でる人を見ると暗い人と決めつけたがる。しかし人は一面だけではない、笑ったり、泣いたり、いろいろな面がある。人だけではないものや風景など思いこみで見ていたものがたくさんあるけれど、実は、まだまだ知らない部分がたくさんあるのだ。

ひとつのものの考えにこだわらずいろんな方向から人やものごとを見てみよう。ありふれた日常生活にこそ小さな発見があり、幸せが落ちているのだから。

 

 

祐 海 合 掌

 

平成16年7月25日

三月十五日に長男が誕生した。名前は大雲(たいうん)といいます。陣痛が始まってから生まれるまで、なんと一時間という速さの出産だった。二人目だったから、子育ても気持ちに余裕があり、一人目とは又違ったうれしさと楽しさがあった。

しかし、生後九日目で髄膜炎という病にかかってしまい入院して しまった。敗血症という血液に細菌が入り全身に菌が回ってしまう合併症にもかかり、重篤だった。

人工呼吸と点滴だらけの小さな体を見て、私は涙が止まらなかっ た。昨日までは、よく母乳を飲みよく寝て順調だと思ってたのに、こんな辛い思いをさせてしまったと自分を責めても責めきれないくらいの悔しさと悲しさでいっぱいだった。

毎日泣いてばかりだったが、周りを見ると子供病院だったので、たくさんの子供たちとその親が病気と向き合っていて、辛いのは自分ばかりではないんだな、みんな頑張ってるんだと思い、勇気づけられ、励まされた。泣くのをやめて、お薬師様の真言「オン コロ コロセンダリマトウギ ソワカ」を唱えて、よくなるように祈ることにした。そして、家族の支えがあり、なんとか乗り越えることが 出来た。

大雲は本当に頑張って、入院二ヶ月半で退院できた。脳の炎症が激しく、傷が残ってしまったため、後遺症が残るかもしれないと医者から言われている。しかし、今のところは、大病したとは思えないほど元気に成長している。

不安や心配は尽きないが、どう後遺症が残ろうとも、私にとってはかわいく、愛おしい子供にはかわりはない。たくさんの愛を受けて大きく育ってほしいと思う。

今回の事で、人は一人では生きられない。たくさんの人に助けられ、支えられているのを実感した。そして、人は、身近な人の愛のある言葉によって、救われるし、がんばれると思った。

 

祐 海 合 掌

 

じぶん

平成16年1月1日

お陰様で娘は1才5ヶ月になり、私のお腹の中には8ヶ月目の子を授かっている。予定日は3月なのだが、もう生まれてきてもおかしくない状況になってしまい、今は、もう少しお腹にいて下さいともし早く生まれてしまっても無事でありますようにと、ただ祈るだけである。

妊娠していると、意味もなく落ち込んだりしてしまうことがある。気分の浮き沈みがあって自分でもコントロールするのに大変だなっ て思う。こんな時、自分を救えるものってなんだろうって考えた。

家族? お金? 宗教?

確かに家族は辛いときにそばにいて支え、見守ってくれ大きな力 になる。でもそこでその力を自分のものに出来るか出来ないかは自 分である。いつまでも家族に甘えていては何もならないから。お金はどうか。実際、お金は無いよりあった方がいいに決まって る。しかし、お金ばかりに執着してるとお金では買えない大切なものを忘れ、お金に振り回され、結局は自分を見失ってしまうよね。宗教が一番、あなたを救えるのは宗教しかないなんて書いたら、 あやしい宗教になっちゃうね。実際、手を合わせて心静かにして祈ると落ち着いたり、救われた気がするけど、宗教は、自分の心の運 転マニュアルというだけで、実際に運転するのは自分なんだ。

結局、自分を救えるのは自分しかいないんだよ。一人の力だけでは生きられないけど、周りの力を借りて、自分で一歩一歩進んでいくんだよね。

これをおシャカさまは自灯明・法灯明って説いたんだよ。

自とは自分のこと。法は教え・仏教のこと。仏教が先じゃなくて 自分が先に来ているよ。先ずは自分の足下を照らし、しっかりと歩み、それから仏の教えをよりどころにしなさいと説かれたんだ。辛いときは泣けばいい、失敗してもまた歩けばいい、昨日は死んだ時間、明日はまだ生まれてない時間、生きている時間のたった今 を大切にすればいいんだよね。

 

祐 海 合 掌

 

おばけ

平成15年7月21日

夏になると、背筋が凍る怪談話でも聞いて涼しくなろうとするせ いか、ラジオやテレビなどでお化けの登場が増えてくる。お寺に住んでいると、「怖くないの?」とか「お化けいるの?」「幽霊見たことある?」と聞いてくる友達がいる。もしかしたら、 ほとんどの人が思ってる疑問かもしれないね。確かにお墓は、亡くなったら入るところで、そのお墓がいっぱいあるお寺は、お化けが見えてもおかしくないと思うのだろう。しかし、亡くなったら住職が供養し引導を渡し、極楽浄土へ旅立っているわけだから、お墓があるからお寺は怖いというのはおかしな話である。お墓は、極楽浄土へいらっしゃる亡くなった仏様に出逢えるところで、むしろ、神聖で、安らかなところなんだよ。実は、ご先祖様が祟ったり、亡くなった人が幽霊となって悪さをするというのは、生きている人がつくり出すものなんだ。生きてい る人が、恨んだり、怒ったり、妬んだりする心によって、お化けが つくられるのである。今自分が見ている世界は、自分の心を通して見ている。真実だと思って見ている現実は、ただのスクリーンで、見えているものは全て心の映写機で写し出されている世界なのである。人のせいにしたり、社会のせいにしがちだけど、自分の心が 変わらなければ、何も変わらない。だから、私たちが、いつも笑っ ていれば、亡くなった仏様はいつも笑顔で見守ってくれている。お化けがいるかどうかは、自分の心に聞いてみてください。

 

祐 海 合 掌

 

先生

平成15年1月1日

私は今、昨年夏に娘を出産し、子育て奮闘中です。出産した病院の先生に「先に生まれた方が偉いのではないのですよ。赤ちゃんにはたくさんのことを教わる。赤ちゃんを先生だと思って育てなさい」と言われた事が心に残っている。ニュースで自分の子供を虐待してしまう親を聞く。今までは、ど うしてそうなってしまうのか分からなかったが、子育てをしてみて、 一人で子育てをしていたら大変だろうなと、虐待は絶対してはならないが、ノイローゼになってしまう気持ちも分かるような気がする。私は、娘を両親や檀家さんなど多くの人に育ててもらっていて、この環境に感謝している。これからどんどん成長し社会へ出て行くが、 娘には、競争社会のこの世の中で、人の評価が気になったり、良い 結果を出すことが全てになっては欲しくないと思う。自分の評価は 自分で決めるものだし、結果ばかり気にしていると、難しいことには挑戦せず、努力しなくなってしまう。結果が全てではなく、たとえ失敗したとしても、挑戦し努力していく過程が大切なのである。御詠歌の名取先生に頂いた絵手紙の言葉に『最初のいただきものこの命』と書いてあった。当たり前のように生きていた私だが 、命を授かりこの世に誕生してくる娘を目の当たりにしたとき、名取先生の言葉の本当の意味が分かった気がする。本当に赤ちゃんには多くの大切なことを気づかせてくれる、仏様なんだなぁ~。

 

祐 海 合 掌

 

幸せの星

平成14年8月1日

「幸せの星の下の生まれた」と母が私に子供の頃よく言っていた。母は0才の時から小学生頃まで小児喘息で発作がとても苦しく、また元気に外で遊べなくてよく寝ていたそうだ。そんな中でも「私は幸せの星の下に生まれたんだ。だから大丈夫。」と思っていたそうだ。今は「よっぽど自信家だったのかしら」と笑って言ってるけれど。人それぞれ環境が違うので、人と同じ条件での幸せなんてあり得ない。だから、世の中不平等なのかもしれない。しかし、どんな状況下でも、この世に命を授かったという点は全員平等なのである。そう、みんな幸せの星の下に生まれたのは同じである。

しかし普段の私たちは、『ガツガツ・イライラ・ムカムカ』と心が不平不満や怒りばかりで、大切なものを見失ってしまう。せっかく幸せの星の下に生まれたのだから、今ある自分に感謝し、他人を思いやり、普段の生活から手を合わせる心を持ちたいものだ。

 

祐 海 合 掌

 

君に出会えて良かった

平成14年1月1日

部屋の掃除をしていたら、懐かしい絵本が出てきた。表紙をめくってみたら、小学校六年の私と当時の担任の先生が写った写真  が貼ってあった。そうこの絵本は、六年の担任の先生が卒業するときに送ってくれた物だった。写真の下には『君に出会えて良かった』と 書いてあった。この言葉を見て、その当時私はどう思ったかは覚えていない。とても冷めてた小学生だったから、どうせみんなに同じ事書いてるのだろうとしか思わなかったかもしれない。しかし、十五年経った今見てみるとこの『君に出会えて良  かった』という言葉は私の心の中の何かがポッと暖かくなった。今まで二十七年間生きてきて、私なりにたくさんの出会いがあり、また悲しい別れもあった。その中で、何回『君に出会えて良かった』と思っただろうと思い返した。

私の出会いの中で楽しい事もたくさんあったけど、悲しい事や悩んだ事、苦しかった事もあった。もしかしたら、出会えて良か  ったなんて思った事なんてほんの数回しかないかもしれいとも思ってしまう。しかし出会えて良かったと思うのも悪かったなって思うのも自分次第だと思った。色々な周りの人に出会って、色々な人に支えてもらって、私がいると思えば、全てが自分にとって素晴らしい出会いなのだろう。

仏教では、仏様は一人一人の心の中に住んでいると説いている。私の中にも仏様は本当にいるのか、また、どんな顔をしているのだろうと常々考えている。そう思うと、十五年前に先生から贈られた言葉に私の心がポッと暖かくなったのは、私の中にいる仏様が熱くなった瞬間のように思う。自分自身がここに存在していると思えた瞬間でもあった。

 

祐 海 合 掌

 

平成13年8月1日

最近、「お~い、野菜がとれたぞ~」と本堂の裏にある畑から、毎朝住職の声が聞こえます。住職が全て土を耕し種まきから草取り水やりなどやってます。その甲斐あってこの猛暑にも負けず、豊作豊作!毎日たくさん新鮮な野菜が食べれて幸せ~。

私は食べる一方で何もやってないのですが、ふと思いました。畑と人の頭は似てるなと。畑は土を耕して柔らかくして栄養をやってよい土ができる。人の頭も耕して柔らかくしないと堅くなって痩せてしまうな~って。水をやって環境をよくしなければ土はぱさぱさになってしまい、いくら種をまいても実りませんものね。

頭という畑を耕して、新しいことを受け入れられる様に柔らかくし、仏心という芽を育てていきたいなと思いました。

祐 海 合 掌

 

人は『かたち』ばかりにとらわれている

平成13年1月1日

私はある人と話していた。その人は田舎に母親を一人残して街に住んでいる。母親が弱ってきたから、田舎へ帰って一緒に暮らした方が良いのかもしれないが、近所付き合いが大変だから田舎に戻るというのは勇気がいると話していた。

近所の人がうるさくて、付き合いが面倒だと思う人も多い。実際そうなんだから仕方ないかもしれない。でも、どうして、そういう付き合いをするようになったか、近所の人も自分も考えるべきだろう。元はと言えば、自分は一人ではいきられない。周りの人に支えられて生きている。その感謝の気持ちの現れから近所付き合いというものが始まったのだろう。元々の心の部分を忘れてしまって、形式ばかりにとらわれてしまう。

私は「目が一重だから二重にしちゃおうかな?最近動かなくてばくばく食べてたら太って来ちゃったよ。ね~お父さんはやせてるのと太めどっちが好き?」と聞いてみた。そしたら「コツと付き合ってるから関係ないよ」と言われてしまった。コツとは骨のことで、人は死んだらみんな骨しか残らない。生きてるときは、骨に肉が付いてる、ただそれだけ。要は外見がどうではなく中身、目には見えない心が大切なんだ。だそうです。

ふむ~なるほど…。『かたち』ばかりにとらわれて、翻弄し、惑わされる事が多い。『かたち』には出来ないものにもっと目を向けて目で見るのではなく、心で観なくてはいけなのねと反省しました。

 

祐 海 合 掌

 

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