茨城県古河市 真言宗豊山派 徳星寺のご案内。

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真言宗豊山派 徳星寺
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本当の世界?!

平成12年7月20日

仏教では六道という六つの世界があると言われている。それは、あらゆる責め苦を受けるもっとも苦しい世界の『地獄』、飢えと渇きに苦しめられる世界の『餓鬼』、虫や鳥、魚も含めた動物の世界無知ゆえに苦しみが多くて楽しみが少ない『畜生』、怒りに満ちた闘いの世界の『阿修羅』、苦楽あい半ばする私たちの世界の『人』六つの世界でもっとも安楽を得られる世界の『天』である。

このいずれかの世界に生まれて、死んだら別の世界に生まれ変わる。生まれては死に、生まれては死に、私たちは永遠に生死を繰り返す。その様子がまるで車輪が果てしなく回り続けるようだというので、「輪廻」と呼ばれている。ぐるぐる回ってる六道の世界から飛び出して、永遠の安心を得る悟りへの道・仏の世界へ行こうというのが仏教が始まった起こりである。

地獄とか餓鬼とか実は、そう言う話は嫌いだった。だって、空想の話のようで本当にそのような世界があるの?って思っていたから、しかし、私たちが生きているこの世界は本当に人界だろうか?と思った瞬間、考えが変わった。

自分や周りの人の心、世間では残虐な事件があったり、戦争をしている国もある…ということを考えると、六道の世界はあると思った。ただ人間という着物を着ているだけで、この外見を取り払って中身・魂だけを見てみると、まさしくそこは、六道の世界が存在しているではないか!

八月十七日、徳星寺では毎年「施餓鬼会」を行っている。本来は悪道に落ちて飢餓に苦しんでいる霊を救うため、飲食物を施して供養する法会である。また現在では、餓鬼にとどまらず、先祖の供養や無縁の霊、戦争や事故で亡くなった方の霊を広く供養する法会になっている。今年からは、その供養に加え、今、中身の自分は六道のどの位置にいるか気づく機会にしたい。そして少しでも仏様の心に近づけるよう、悟りへの憧れをもって生活したいものだ。

祐 海 合 掌

 

きらきら輝く

平成12年1月1日

最近、週2~3回、私は小学3年から6年生の女の子にバスケットボールのコーチをしている。自分は中学から大学までバスケットをしていてバスケットが好きだし、子供も好きだから好きなものが二つ同 時に出来るなんてと軽い気持ちで始めてみた。でも、やってみたら難しいことが分かった。何が難しいかと言うと、言葉で説明してもなか なか理解してもらえないところ。何事、ものを教えるというのは、奥 が深くて大変なんだと思った。でも、子どもたちのあのきらきらとした目で見つめられると、がんばろうって気になる。

ここで私が気を遣ってることがある。スポーツって上手い下手とい う能力の差が明確に出てしまうとても厳しいもの。でも、上手いからと言ってその子だけをのばすのではなく、下手だからと言って切り捨 ててしまうような教え方はしたくない。厳しい中でも自分の役割というものをそれぞれが見つけだして欲しいと思っている。自分の得意とするものを見つけて生かして欲しい。プレーだけではなく、チームの 仲間を大切に出来るように、お互いをけ落とすのではなく、認め合っ て、助け合いながら、上手くなっていって欲しいと思う。それぞれの きらきら輝くものをどんどんのばしていって欲しいと思う。

私は子供たちのきらきら輝く目を見ながら、いつもそう思うのであ る。いつになっても、まぶしさって失ってはいけないのだと。

 

祐 海 合 掌

 

人生に無駄はない。

平成11年7月20日

人生に無駄はない。

人生に失敗はない。

人生に負けはない。

 

人生の無駄・失敗・負けって一体誰が決めるのだろう。また、どうやって決めることなのだろう。それは、他人が自分と他人を比べたり自分が自分と他人を比較して決めるのである。

人間の物差しは損か得か、幸か不幸か、勝ちか負けかなど全て他者と比較している。この物差しは全てだと思いこみ、人は悩む。しかし、人の物差しは、ある一部分しか見ていないし、比較する基準も他者との比較から生まれた価値観にすぎないのだから、当てにはならないよ。仏の物差しで見てみれば、その人が、人生を無駄・失敗・負けって思いこんだものは、本当はその人にとって、素敵な経験であり、大切な人生の一ページなのだ!

全ては生きていることに価値があり、意味がある。でも、その価値や意味は人につけてもらうのではなく、誰かと比較するものでもない。全てを見ている自分の中にいる仏様が自分自身の人生に価値や意味をプレゼントするものだ。

 

祐 海 合 掌

 

まわりの力

平成11年1月1日

昨年十月に前住職が亡くなった。その一ヶ月後、豊山派管長猊下をお迎えして大きなお葬式が行われた。この一ヶ月間は、たくさんの人が動いてくれた。自坊の者だけで出来たのではない。たくさんの人の力によって出来たものだ。私は何をしたのだろうか?何もしていないような気がする。私だけ時が止まっていて、周りの人の働きが感じ取れる感覚だった。その時の私は、「まわりの力」というものに気づくことが出来た。一つのものを動かすのには一人では出来ない。多くの人の助けによって出来るのだと思った。

このことはすべてのことに言えるのではないだろうか?種だけがあっても花は咲かない。土や水、太陽などまわりの縁によって花を咲かすことが出来るのだ。決して一人で出来るものなどない。だから、人は謙虚にならなければならないのだ。自信過剰になると、自分は偉いとか、自分は出来る、何でも一人でやってきたなどと思うだろう。また反対に自信喪失になると、自分はダメだ、自分は何もできないと思うだろう。これらの考えは、自分が自分がと言って自分しか見えなくなっている。自分しか見えなくなっていると「苦」しか生まれないものだ。

インターネット上で自殺のホームページが多いという。そして、自殺願望者に毒薬を売った事件があった。読売新聞に自殺も遊び感覚化が進んでるのでは、と言う記事があった。彼らは、生きているのだか死んでいるのだか実感が湧かないのだろうか?いやいや、ただ彼らは自分しか見えなくなっているのだろう。彼らだけではない、日本人のほとんどがそうではないだろうか?我が前に出て自分がかわいくって仕方ない。でも、もっと大きな広い目で見てみると、私たちはあらゆるまわりの縁によって生かされてることに気づくはずだ。

 

祐 海 合 掌

 

「幸せ」について。

平成10年7月22日

今、幸せですか?

普通「幸せ」というと、「結婚するから幸せ」だとか、「お金持ちだから幸せ」とかそういうものを考えがちだけれど、このような世間的な幸せは、一夜にして崩れることもあるでしょ?そうなると、いつ壊れるか、不安で仕方ないよね。そんな幸せって、本当の幸せなのかな?本当の幸せとは、苦しくたって、悩みがあっても、幸せと感じられるものだ。どんなに周りが変わっても、「幸せ」は変わらない。これが、仏教で求める幸せなのだと思う。

一見難しくて、私には出来ないって思う人がいるかもしれない。でも難しいことはないし、誰にでも出来ることなのだ。ただ「生きている」ということに気づけば良いだけのこと。何気なく、起きて、食べて、働いて、寝るという過ごし方の人が、多いと思う。でも、生きているって実感すると、一つの行動にしても、感謝する気持ちが湧いてくるものだ。悩んで辛くても、生きているからそう感じることが出来るのだと思え、楽しくてシアワセの時は、思いっきり感謝する。そうすることによって、ありのままの、今の自分に満足することが出来、「幸せ」が後から付いてくるものなのだ。

では、誰に感謝すれば良いの?それは、もちろん命を授けてくだっさた仏様やご先祖様に。そして、お寺に行ったり、お墓参りをしたり、家に仏壇がある人はそこで拝んだりすれば良いのだが、一番身近にいて、いつでも何処でも、感謝の気持ちを伝えることが出来る、自分の心の中にいる仏様に感謝すれば良いのだ。

こんな気持ちになれれば、不況だの、世紀末だの騒いでる世間なんてちっとも怖くなんか無いですよ。

祐 海 合 掌

 

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